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2008年01月

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 男は絶望ヶ淵に立っていた。

 絶望ヶ淵は人々が勝手にそう呼ぶだけで、ほんとうはそこに正式な名前はなかったが、意味としては全くはずれともいえないので、そこはやはり絶望ヶ淵なのであった。


 絶望ヶ淵には腰のまがった老婆がひとり、あとは荒廃した赤黒い大地がえんえんと続いているだけである。頭上には濃灰の雲がぶ厚くたれこめ、全てを覆いつくすように地平線の向こうまで広がっていた。

 老婆は問うた。

「わすれものは?」

 男はあごに手を当てすこし考える。

「……筆と紙と絵の具を」

 すると老婆はすこしのあいだ黙った。濃緑のローブを頭からかぶったその顔は、半分以上が影におおわれ、表情は見てとれない。

 老婆はふいに何かおもい出したように、ゆっくりとした仕草で、右手を横に肩の高さまであげると、向こうの方を指さした。

「いいや、嘘だね。お前がわすれたのは、あれだろう」

 男が老婆の指の先に目をやると、その先には子供が立っていた。

 よくよく見ると、その子供の顔はどこかで見たことがある気がした。髪型も服装も、はいている赤い靴にも見覚えがある。

 それもそのはず、その子供は、男の幼いころのじぶんそのものだったのだ。

 男はそれに気づいて、目をこらしてその顔をよく見た。

 子供は目に涙をためて、うらめしげに目を細めて男のことを見つめている。

 ――否、子供は男をうらめしくおもっているのではなく、まわりにある全ての世界をうらめしくおもっているのだ。

 男は、それを知っていた。ここに来るよりもうずっと前から、男はそれを分かっていた。

 男は「ああ」とちいさくつぶやくと、ゆっくりと子供の方へ歩いて行った。

 子供の目は正面を見たまま、じっと動かない。

 男が子供のすぐそばまで行き、子供の頭に触れようとしたその瞬間、ふっと子供の姿が消えた。

 老婆もいつのまにやらいなくなっていた。

 そこにはただ、絶望だけが、薄らと残されているのだった。

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「ここにはふかふかのベッドもあって、甘いお菓子が尽きることも無くて、数万の本に囲まれて、美しい空気に満ちているわ。とても優しい小鹿さんも、おしゃべりずきな蝶さんたちも、歌が得意なコマドリさんも、気の利く子リスさんもいる。けれど――私は行かなくてはならないわ」

 そう言ったエメリナを、子リスはほとんど悲鳴のような声で引き止めました。

「いやだいやだ」「なんだって、行かなくてはならないんだ」

 他の動物も虫たちも植物も、みんなそれにならいました。

 けれどエメリナは、真っ直ぐ前を見据えて立ったままです。

「私は、ここにいればきっとずっと幸せよ。だけど、幸せという甘い蜜の中でいては、私の心は腐ってしまう。だから許してちょうだい」

「いやだいやだ、そんなのはいやだ」

 みんな必死にエメリナを引き止めようとしましたが、それは無駄に終わりました。


 結局、木の根元にあるその暖かい場所を出たエメリナは、けれど数十分歩いたあと、突然何か思い出したように振り返ると、来た道を戻り始めました。

 そして再びその場所に戻ると、マッチで火を放ちました。火は瞬く間に燃え広がり、その場所を、動物も虫も植物も全て、焼き尽くしてしまいました。

 そうしてエメリナの復讐は、とうとう為されたのでした。

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はちみつに浸った世界

でもただ甘いだけじゃなくて

ずっとずっと苦い思い出よ。

淡々とした語り口でもって

綴る物語の終章? あるいは、


君はただ小さな箱庭を

世界と呼んでいたね

私はそれを小さくあざ笑い、

君にハグを送った。


ひざを抱えて思い出し泣きをした

愚かな君が好きだったんだ

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私のかわいい猫が言った。

「お前が言う、そしてすべては‘なされる’べきだ」

私は答えた。

「それはそうです。けれども私にはしっぽがありません」

私のかわいい猫は言った。

「しっぽよりもまず、鈍色の帯だ。それ、その箱の中をのぞいてごらん」

箱の中をのぞくと、そこにはまるでインクのつぼをひっくりかえしたようなまっくら闇があった。

「そこに鈍色の帯があるだろう。それは彼らの金色の帯だ」

「いいえ、ここには肉色の綿、それとたれぞの指輪しかありませんわ」

私のかわいい猫はあくびをした。

「ならば箱を閉じ、目を瞑って、たれもいない世界へお帰り。そこは真っ暗闇の中だけれども、影は薄藍色の雫だから」

「そこに私を好いてくれる人はいるかしら」

「きっといるだろう、けれどもその人は偽りで、ほんとうのそれはただの嘘だ」

私のかわいい猫は、もうとっくの昔に眠ってしまっていた。

私はそれを聞いてすっかり安心し、目を瞑るとさっさとエメラルドの海の深い深い浅瀬へと帰っていった。

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「なぜ私は他の人と同じようにできないのかしら」

「そんな必要ないわよ。あなたはそのままでいいのだから」

「だけどそうでないと人は私をみとめないわ。私は他の人と違うから迫害されるのよ」

「本当にそうかしら。たぶんあなたは迫害なんてされないわ」

「うそよ。みんな私をきらって、向こうに追いやり、罵倒するに決まってるんだわ」

「どうしてそうおもうの?」

「だって私は他の人と違うんですもの」

「どこが違うとおもうの」

「どこがって、きっと考え方や行動や言動やふるまいや、もう全てよ。そう、私はまるっきし違うのだわ」

「たしかにあなたは他の人とは違うかもしれないけれど、他の人もまたおなじように、他の人と違うことをわかっている?」

「一体どういうこと? 他の人は他の人で、全部一緒だわ。ひとまとめにして、全部一緒なのよ。私だけが違うの。ただ私だけが」

「あなたはじぶんのこと特別視しすぎてるようだけど、あなたも傍から見たら、所謂他の人の中の一人なのよ」

「うそよ。私は、私は独特であろうとしてきたし、そのためにじぶんをかざりつけてきたのよ。なのにどうして同じだというの。どうしてたれも私を特別だと、みんなと違うと言ってくれないの」

「あなたは他の人と同じようになりたいのじゃないの?」

「なにを言っているの? 意味が分からないわ。どうせあなたも私のことなんてわかってくれるはずがないのよね。もう結構よ」

「あなたは何をなやんでいたの?」

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