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 ――この世界は、僕の心が作り出している。

 ギルバート・レイはそう私に言った。

 あれは真夏の、せみの泣きわめくとても暑い日のことだった(あるいはまだ夏の香りがほのかに鼻先を掠めたばかりの頃のことだったかもしれない)。オゾン層を突き抜けコンクリートや木の幹や私の皮ふや服にじわりじわりと侵蝕し滅ぼす白い日差しからとにか く逃れたくって、私はギルバート・レイに生返事だけを残し、駆け足で木陰にすべりこんだ。木の傍に置かれたベンチに“ぼとん”と腰を降ろすと、にこにこしながら私のあとをゆっくりと歩いてくるギルバート・レイの姿が日差しにかすんだ。

 ギルバート・レイは、とても変わった人である。神父様が着ているような、詰襟で裾の長い、真黒なコートのような(キャソック、というらしい)服を着て、おそらく女性もののツバが大きく緩やかに広がった黒い帽子をかむっていた。一見聖職者のようなのに、聞けば無宗教者だと言う。それがなんだかおもしろかった。ローティーンだった私にしてみれば、そういう既成概念にとらわれないさまに、すっかりハマってしまったのだ。

 ようやく私の元に辿り着いた彼は、私の隣にこぶし二つ半分の間をあけて腰を降ろして、小さく息を吐いた。ひとつに束ねた長い金髪と、美しいひとみが、木漏れ日にきらりとした。

「ええと、なんの話だったかしら?」と遅ればせながら私が問うと、

「君は粘土だっていう話」

 そんな話だったかしらと思うが、実際話の内容なんてどうでもよかった。ただ彼と一緒にいれさえすれば、それでいいのだ。

  地面に届かない私のつま先の向こうで、木の葉の影が躍る。ふいに隣で空気が擦れる音がした。私はさわさわと動く模様から目を反らすことなく、彼が笑ったのだと理解した。

 これは彼のくせだ。笑うとき、いつもこんな音がする。心のうちに生まれた楽しみやおかしみを、白い歯の間から吐き出すようにして小さく笑う、そういうひとだ。

「さっき言ったこととそれとは、結局、同じことなのさ。僕の頭の中で、粘土をこねくり回して作ったたくさんもの、そのうちのひとつが君なんだもの」

「ふうん。そう」

「うん。そうなんだよ」

 彼の言葉は不思議だった。その内容がひどく突飛でユニックで奇天烈であっても、まるで子どもの頃から身について理解しているごく当たり前の自然の理を改めて確認されているかのように、すんなり受け入れてしまえる。

 むしろ私には、物心ついた頃から毎日かかさず読むように言いつけられてきた聖書の方が、妙に居心地の悪さを感じるのだった。だがこのことは、特に母親には絶対厳守の秘め事だった。

「私、勘違いしてたのね。てっきり、お母さんのお腹から生まれてきたと思ってた」

「それは夢のなかで読んだ絵本の話だよ。君にお母さんはいないと思う」

「……そう。そう、よね」

 それを聞いて私はなぜだか心の奥深いところから溢れ出てくる安堵感のようなものを覚えた。それと同時に、すさまじい罪悪感と羞恥心に打ちひしがれ、顔をぱっと俯けた。

 そんな私に、彼は優しく微笑んだ。まるですべてを許してくれているかのような温もりを感じた。


  ギルバート・レイがよく言っているのは、唯一神といったものは信じないが、空気中に存在する数千万の精霊のことは信じる、といったことだった。

 だから根っからのカトリック系信者である私の母は、私が彼と会うことをよく思っていなかった。

 以前私は、ある日奇妙なほど突然心の中に沸いて出た、にやにやする真っ黒い感情の塊のやり場に困り、なんだかとてもそうしたくなって、彼が言っていた“それ”をあたかも自分の考えであるかのように母に語ってみせたことがある。

 それを聞いた途端母の目はナイフように鋭くつり上がり、鬼の形相で私を叱った。そして有無を言わさず私を物置に閉じ込めた。夕方のことだったから晩ご飯ももらいそびれ、そのまま夜を明かした。仄かな青色の滲んだ闇の中、空腹と得体の知れない恐怖に耐えかねた私は、翌朝様子を見にやってきた母に真実を叫び、泣きながら床に這いすがって許しを請うた。

 爾来ギルバート・レイは母にとっての最大最悪の敵だ。

 にもかかわらず、私はそれ以降も母の目を盗んでは、こうしてしばしばギルバート・レイと会っている。

 あんな出来事の後では、それが母にばれるということは、死ぬほど恐ろしいことであるようにも感じられるのだが、私はそれを決してやめるつもりはない。同時にある種の背徳のスリルや高揚感、そしていっそ見つかってしまえば良いのにという奇妙な破壊的欲求やかすかな期待感も、確かに存在している。


 今思えば大変不思議なのだが、ギルバート・レイは、私が会いたいと思うのとほぼ同時に、私の前に現れた。

 それを思ったのが自室にいる時であれば、次の瞬間には窓向こうの景色に、ひょろりとした彼の姿を見つけた(その時は大体、彼はまるでずっと前からそこにいたかのように、部屋の中にいる私を見つめていて、私が彼に気付くと同時に、かろやかな笑みを見せた)。学校やお遣いの帰りであれば、道脇に神経質に立ち 並ぶ街路樹に、気だるげに背をもたれて立つ彼の姿を見つけた。

 そしていつも決まって、私が彼まであと二メートルの距離まで小走りで近づいたところで、にこやかに「調子はどう?」と訊くのだった。

 彼は他の大人のように、今忙しいのだの後にしてくれだの言って、私を軽んじて拒んだりあしらうことはなかった。彼からしてみればまだ子どもであるはずの私のことも、一人の人間として尊重してくれているようだった。私はそれがとても誇らしく、特別なことのようで、ことさらに嬉しく感じるのだ。彼の前では無邪気な子どもらしく振る舞わなくても良かったので、そういう意味でも彼と話すのはとても心地良かった。

 ギルバート・レイは、柔らかい響きのささやきでもって、私の耳の穴から脳みそに、母の言うところの『毒』を流し込む。

「僕は君のお母さんは、作ってないんだよ。残念だけど。作る気はないな。だけど君のお父さんのお嫁さんなら、作ってもいい。彼女が作ったレモンの砂糖漬けを食べたら、君の魂がそこから芽を出すんだ」

「すべり台から芽を出すの? 素敵ね。ねぇそれより、この間の話のことだけど。妖精がこの街の全てのメダカムシを育ててるって話」

 私は彼の話を完全に理解なんてしていなかった。もちろん全て信じ込んでいた訳でもなかった。けれどそれが嘘か本当かなど、私には心底どうでもいいことだった。

「あれから目を凝らして木々を見るようにしてたけど……妖精どころか、そのメダカムシっていう虫だって、私、見つけられなかったよ」

「そりゃ僕だって、見つけられないよ」

「じゃあギルバート・レイはなんでそんなこと知ってるのよ?」

「そりゃ、精霊が教えてくれたんだ」

「精霊が? 見えるの?」

「見えないよ」

「じゃ、教えてくれたって、どうやって?」

「色々さ。コップに注いだ水に波紋を浮かべたり、壁にぎしりと音を立てさせたりしてね」

 そんな話をしながら、私は隣の彼の横顔をちらちらと盗み見ていた。いつのころからか、彼の顔を真正面から見られなくなった。なんでなのか、自分でもよく分からない。

 広いツバの奥に潜む双眸は、翡翠の羽を水で薄く溶いたような色をして、今は前方の少し離れた場所にある小さな噴水へ向いている。そこに明らかな表情はなく、感情は読み取れなかった。その時の彼はまるで、長く地の底に幽閉され、決して届かぬ日の当たる大地に強い 羨望を抱く清い悪魔のようでもあったし、あるいは周囲に潜む有害な毒素や化学物質に気付かず、胡乱な幸福という光に浸る人間を侮蔑する、よこしまな天使のようでもあった。私は、そんな彼の横顔にしばらく見惚れていた。

 突然私はあることに気付いた。

 自分の顔が耳の裏まで赤く染まるのを感じた。血液が滝のような激流で体中を駆け巡り、火にかけたやかんのように全身熱くなる。

「行かなきゃ」

 急にぽんと立ち上がった私を、彼が怪訝そうに見上げる。その視線を冷静に受け止めることは、私には到底、出来なかった。

「もう行くの? 今日は早いんじゃない」

「うん。ちょっと、ね」

「ちょっと、」

「そうなの。ちょっと」

「ふうん。じゃあ」

 彼の反応は冷ややかで淡泊なもので、私は内心とても落ち込んだ。

「うん……じゃあね」

 と、なるべく何でもない風をよそおい、小走りにその場を後にした。しばらく歩を進めてからそっと振り返ってみると、ベンチにはもう誰もいなかった。付近にもそれらしい黒ずくめはもはや影すら見止められない。彼との別れは、いつもこうだ。


 そしてこの日の別れは、私にとって、彼との今生の別れとなった。


  *



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世界が色めき立つ

みどりの肌のバレリーナは

舞台からそっととびおりた

それを追いかける

くろく長いおさげの少女

「私は生きている! そのことを今、まぎれもない事実として、実感している!」

虹色の世界に影絵がふたり

けれど老婆は少女にいった

「月食のオフィーリア。残念だったね。子宮はとってしまったよ」

少女がおどろいて見ると

下腹部にちいさな傷跡

そして泣きわめいた

「ひどい。もうすこしだったのに」

悲しみにくれる少女を

碧いワンピースの首なしが抱いた

不安よりも期待、

されどそれは

不安をぼかすためのまぼろし

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アメジスト色の景色の中に、悲しみの巨木がいた。

その足はもう朽ちて、中はくうどうになり、あの人の薔薇をとりにいくことはできなくなってしまった。

巨木は泣きに泣いて、いつしかその大きな体を、そばの崖にもたれさせ、小さくなって、座り込んでしまった。

おばあさんは私にその方向はよろしい、と言った。

然らば私は旅立って、崖を登り始めた。

空は明瞭にはれわたり、澄んだ世界を持っていた。

薔薇は小さな青いむらさきだった。もう白ざめてしまっていた。

それはまるで病弱な若い女のようだった。

彼女の根を掘り、その根の一つを4つに割って、巨木の足元の土に埋めた。

するとそこに、小さなかわいい白い薔薇が、ほんのいくつか咲いた。

巨木は私を見下ろした。

青く白ざめたむらさきの薔薇は、ずっと昔、たしかに私の大切なものだった。

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悪はおおいなる海を作った。

海はすべての罪をのみこみ

エメラルドにオパールに色をかえて、

ただ神の手中よりはみ出さんとひたすらに世界を包んでいった。

海中に落ちた ふかき罪は人をてまねきし、

いつか悪は世界のすべてとなった。

世界にとって悪しき者はその証を額にきざまれ、

幸福を受容することは永遠に許されぬように定められた。

枷をはめられた娘は許されざるかなしみの涙をながしたので、

海へゆっくりと足をひたすと、次第にその体を沖のほうへと投げ出した。

そうして娘の罪は海へと還り、

世界にあまねく罪のひとつは

また海の底のちいさな宝石となって

ただとわの眠りへとつくのだった。

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私が何も知らなかったころ

私には理解しえない世界の秩序があるのだと思っていた

美しさを理解できぬ代わりに

すべてを受け入れることができた

世界のどこかが真実存在することも分からずに

ただ空想を夢だと錯覚していた

漠然とした幸福はいつか

私に降りそそぐだろうと信じていた

許容しきれぬものはすべてが恐ろしかった

世界は恐ろしかった

世界は優しかった

たくさんのものが私の目の前で姿を変えた

空の現実が私にせまり

世界はすっかり色を変えたけれど

私は今も昔も

私のままなのだ

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あなたと2人、手を繋いで

甘い甘い甘いお砂糖細工でできた砂時計の上をジャンプして

太陽よりも大きなバラの蜜を吸う

そうしてたれよりも幸せになれる権利と1ペンスをもらって

湖畔の小さな木の家へ帰る途中で

妖精がピンクグレープフルーツの香りで私たちをコーティングして

私はなんだかとてもわくわくした気持ちになって

気がつけば宙に浮いていて、どんどん飛んでいって宇宙にまで行ってしまって

いつしかあなたを見失ってしまって

ペンギンの給仕につつかれて目が覚める


私は一人、王女の上で居眠りをしていた

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ベージュのリネンににじんだ

あわいコーヒーの染みのような感情

人のために

私はうつくしくなれるのか?

人のために

私はたれよりも毅然としていたい

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